西之表市街地を、約60分ぐらいで回る観光コースの紹介です!
市街地を歩く60分観光コース
- 鉄砲館
- 種子島時尭像
- 月窓亭
- 赤尾木城跡
- 犬の馬場
- 本源寺
- 栖林神社
- 御拝塔墓地
- 鉄砲鍛冶集落跡
- 八板金兵衛清定像
鉄砲館
種子島開発総合センター鉄砲館は、昭和58年(1983)に開館し、種子島の歴史、民俗、自然を実物資料やジオラマ、写真などで紹介しています。 種子島は鉄砲の伝来地であると同時に国内で初めて火縄銃を製作した地であることから、1543年に種子島に伝わったポルトガル初伝銃や伝国産第1号銃をはじめ、国内外の古式銃約100点を展示しています。種子島の文化や民俗を紹介したジオラマもあり、ここにくれば種子島のすべてが分かります。 種子島開発総合センター(鉄砲館)では、館内のご案内や観光のお手伝いなど、種子島の旅のサポートをさせていただく、種子島鉄砲館コンシェルジュを配置しています。
種子島時尭像
『鉄炮記』によると、天文12年(1543年)、ポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着した。この南蛮商人は、日本人がはじめて見る鉄砲を持っていた。16歳だった時堯は射撃の実演を見てその威力に着目し購入を決断する。そして時堯は購入した二挺のうち一挺を鍛冶職人八板金兵衛に調べさせて国産化を命じ、金兵衛は苦心の末に、日本人の手による銃の製造に成功した(もう一挺は島津氏を通して、室町幕府将軍足利義晴に献上)。伝来の場所から鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国期の日本の戦場に革命をもたらした
月窓亭
寛政7年(1795年)家老羽生道潔が建てた屋敷。種子島家の家老で養蚕業の普及や「種子島家年中行事」の編集をした羽生道潔や池坊大日本総会頭職を努めた羽生道則などを輩出した名家・羽生家の屋敷であり、明治19年以降は種子島家がこの屋敷に居住した貴重な文化財。また作家司馬遼太郎や数多くの著名人が訪れました。毎日、訪問者へ歴史のガイドや湯茶のおもてなしを行っています。
赤尾木城跡
赤尾木城跡の榕城小学校の校庭に、西之表市の木「アコウ」の大木があります。ここはかつて、種子島の当主・種子島家の居城があり、第19代島主久基公が山鹿流によって築いたと伝えられます。現在も石垣と土塁の一部を見ることができます。このアコウの木が茂っていたことからこの地は赤尾木(あかおぎ)と呼ばれるようになったと言われます。
犬の馬場
この道は、古くから武士(ぶし)が「犬追物(いぬおうもの)」を行っていた場所で「犬(いん)の馬場(ばば)」と呼ばれています。 犬追物(いぬおうもの)とは、馬場(ばば)(乗馬(じょうば)の稽古場(けいこば))に放(はな)した犬を、馬に跨(またが)り追いかけながら矢尻(やじり)の付いていない矢で射(い)る、騎射(きしゃ)の稽古(けいこ)のひとつです。流鏑馬(やぶさめ)や笠懸(かさがけ)とともに、中世の武士(ぶし)の間で盛(さか)んに行われました。 犬(いん)の馬場(ばば)から南へ一本入ったところには、島主(とうしゅ)が使用した井戸があり、その辺りを「井ノ上(いのうえ)」と呼びます。
本源寺
種子島家の菩提寺で、文明元年(1469)、第11代島主・種子島時氏によって創建された。それまで律宗だった種子島家は、時氏の代に法華宗に帰依。以後全島をあげて法華信仰が広まった。本源寺の境内には、種子島に法華宗を伝えた日典上人の遺志を継いで、法華宗の弘法に努めた淡路島出身の僧、日良上人の墓や僧の供養碑群が並んでいる。
栖林神社
栖林神社は文久3年(1863年)松寿院(23代島主久道夫人)により19代島主久基(号は栖林)の甘藷栽培の偉業に感謝し、その功を後世に伝えんと本源寺の射場(今の市役所下、支庁長官舎の所)に栖林神社を創建した。毎年1月11日には、直径175cmの大きな的を弓で射る「大的始式」の行事を挙行し、無病息災を祈願する。
御拝塔墓地
島主種子島氏の最初の墓地である。初代から数代の墓は、所在・刻字も不明であったので、第23代久道夫人松寿院が、初代信基から4代真時までを一基にまとめ、法号を刻み詣り墓とした。武将第16代久時、鉄砲伝来の第14代時尭の墓などがある。この周囲に、入島当時の家臣20家の墓がある。
鉄砲鍛冶集落跡
八板金兵衛清定像
美濃国関(岐阜県)の鍛冶職人であった八板金兵衛は種子島へ来住してきました。金兵衛は種子島で鍛冶屋の頭領となり、天文12年(1543年)、第14代島主種子島時尭より、種子島に漂着したポルトガル商人から譲り受けた鉄砲を解体し、国産の鉄砲を製造するよう命じられました。銃形はすぐに完成させることができましたが、銃底を塞ぐネジ止めに苦戦の日々でした。娘の若狭がポルトガル人に嫁いだことで銃底を塞ぐネジの技術を手に入れ、天文14年(1545年)、わずか2年で火縄銃の国産化に成功しました。