90分で巡る市街地おすすめ観光ルートガイド(ザビエル・永俊尼を偲ぶ)

西之表市街地を、約90分で回る観光コースの紹介です!

市街地を歩く90分観光コース

  1. 鉄砲館
  2. 種子島時尭像
  3. 御拝塔墓地
  4. 慈遠寺跡
  5. 鉄砲鍛冶集落跡
  6. 井之上とカタリナ永俊尼
  7. 赤尾木城跡
  8. 月窓亭

鉄砲館

種子島開発総合センター鉄砲館は、昭和58年(1983)に開館し、種子島の歴史、民俗、自然を実物資料やジオラマ、写真などで紹介しています。 種子島は鉄砲の伝来地であると同時に国内で初めて火縄銃を製作した地であることから、1543年に種子島に伝わったポルトガル初伝銃や伝国産第1号銃をはじめ、国内外の古式銃約100点を展示しています。種子島の文化や民俗を紹介したジオラマもあり、ここにくれば種子島のすべてが分かります。 種子島開発総合センター(鉄砲館)では、館内のご案内や観光のお手伝いなど、種子島の旅のサポートをさせていただく、種子島鉄砲館コンシェルジュを配置しています。

種子島時尭像

『鉄炮記』によると、天文12年(1543年)、ポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着した。この南蛮商人は、日本人がはじめて見る鉄砲を持っていた。16歳だった時堯は射撃の実演を見てその威力に着目し購入を決断する。そして時堯は購入した二挺のうち一挺を鍛冶職人八板金兵衛に調べさせて国産化を命じ、金兵衛は苦心の末に、日本人の手による銃の製造に成功した(もう一挺は島津氏を通して、室町幕府将軍足利義晴に献上)。伝来の場所から鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国期の日本の戦場に革命をもたらした。

御拝塔墓地

島主種子島氏の最初の墓地である。初代から数代の墓は、所在・刻字も不明であったので、第23代久道夫人松寿院が、初代信基から4代真時までを一基にまとめ、法号を刻み詣り墓とした。武将第16代久時、鉄砲伝来の第14代時尭の墓などがある。この周囲に、入島当時の家臣20家の墓がある。      

 

 

慈遠寺跡

本源寺に次ぐ島内第二の寺院が華蔵山慈遠寺であった。律宗の寺で、大同4年に奈良の興福寺の末寺として建立された。長享2年に法華宗に改宗した。現在の八坂神社のあたり、北は春日山から御坊の丘、東はトンギョウの坂といわれる野首の坂、ここから海岸にかけての一帯だったらしい。    

 

 

 

鉄砲鍛冶集落跡

玉川沿いのこの辺りは鍛冶屋街で何件もの鉄砲鍛冶が軒を連ねていた。付近は池田黒山尻と呼ばれ、鉄砲鍛冶屋はこの川周辺に集まっていたという。全盛時代には、黒山六十軒と呼ばれ、槌の音も高く、南九州一円から注文を請け負うほどの盛況ぶりだったとか。国産第1号の火縄銃を作った八板金兵衛清定の屋敷もこの辺りにあった。   

 

 

井ノ上とカタリナ永俊尼

市役所の正門前から榕城小学校へぬける道の途中に石で井筒が作ってある井戸がある。種子島の殿様が使用していた井戸で、水の枯れたことがなかったという。この井戸の北側に犬の馬場への切通しの階段が見え、その上にある屋敷を「井ノ上の屋敷」といい、この辺りを井ノ上という。キリシタンのため種子島に流されたカタリナ永俊尼も晩年ここで過ごしたらしい。  

赤尾木城跡

赤尾木城跡の榕城小学校の校庭に、西之表市の木「アコウ」の大木があります。ここはかつて、種子島の当主・種子島家の居城があり、第19代島主久基公が山鹿流によって築いたと伝えられます。現在も石垣と土塁の一部を見ることができます。このアコウの木が茂っていたことからこの地は赤尾木(あかおぎ)と呼ばれるようになったと言われます。  

 

 

月窓亭

寛政7年(1795年)家老羽生道潔が建てた屋敷。種子島家の家老で養蚕業の普及や「種子島家年中行事」の編集をした羽生道潔や池坊大日本総会頭職を努めた羽生道則などを輩出した名家・羽生家の屋敷であり、明治19年以降は種子島家がこの屋敷に居住した貴重な文化財。また作家司馬遼太郎や数多くの著名人が訪れました。毎日、訪問者へ歴史のガイドや湯茶のおもてなしを行っています。

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