寛政7年(1795年)家老羽生道潔が建てた屋敷。種子島家の家老で養蚕業の普及や「種子島家年中行事」の編集をした羽生道潔や池坊大日本総会頭職を努めた羽生道則などを輩出した名家・羽生家の屋敷であり、明治19年以降は種子島家がこの屋敷に居住した貴重な文化財。また作家司馬遼太郎や数多くの著名人が訪れました。毎日、訪問者へ歴史のガイドや湯茶のおもてなしを行っています。
羽生道潔(1768年~1845)が27歳の時、今から200年以上前の寛政7年(1795年)に建てたもので、庭の中心にあるイヌマキの大樹の下にこの家の構築物と考えられる石組が認められ、このイヌマキも樹齢約200年程度と思われています。道潔の孫羽生慎翁も同様にこの住宅で茶道・花道などの修業を重ねるが、慎翁は、薩摩・大隅総会頭職、大日本総会頭職などを歴任することにより、鹿児島、東京での生活が中心となっていったようです。
一方、明治という新しい時代の流れの中で、旧家臣たちは27代守時公を種子島へ迎え入れるため屋敷探しに奔走し、明治19年羽生慎翁のこの旧第に迎え入れることになちます。以来、平成12年まで種子島家住宅として使用されていましたが、所有者が転居することとなり西之表市が購入したものです。
「明治19年6月27日守時君幼沖にして依るところ無きを以てす。是に至りて譲蔵等、島人らと協議し、守時君をして、しばらく旧臣に依らしめ、その成立を待って以て家運を挽回せんと欲す・・・(以下省略)」(種子島家譜6巻)
版籍奉還という新しい時代の流れ中で、旧臣前田譲蔵を中心とする種子島家加勢集団は、幼少の27代守時君(8歳)を種子島へ迎えるために奔走する。
この頃、羽生慎翁は池之坊大日本総会頭職(東京在住中)として活躍中で、赤尾木城を眼前にする羽生慎翁旧宅に決定し、明治19年10月31日この屋敷に奉迎することとなった。
以来、種子島の人々は、この屋敷を「お屋敷」と呼ぶようになったが、幾星霜移りても、島人の心の中に、「お屋敷」は、島の誇りとして心の拠り所となってきた。
この屋敷は、羽生家の住宅であったが、明治19年種子島家が鹿児島から移り住んだことにより、島の人々は、「お屋敷」と呼ぶようになった。
種子島家が移り住んだことにより、700有余年の種子島の歴史を綴る種子島家譜類やポルトガル伝来銃、国産第一号銃、生き人形「山野井様」などの宝物が多数保存されてきたことから、数多くの著名人らがこの屋敷を訪れた。それは枚挙に暇がないほどであるが、代表的な人々を挙げる。